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無知の玉手箱
~知らないから始まるマーケティング~


このコラムでは政治を取り上げることが少なくありません。

ただ、政治は立場や価値観によって意見が大きく分かれるテーマですので、本来はあまり踏み込みたくない分野でもあります。

それでも今回の衆議院議員選挙の結果は、PRの観点から見て非常に示唆に富んでいると感じましたので、私なりの視点で整理してみたいと思います。

 

今回の選挙は、高市総理が「私が総理大臣でいいのかを問う選挙」として衆議院を解散したことから始まりました。

1月の解散については、予算審議が滞るのではないか、雪の季節や受験シーズンと重なるのではないかといった懸念もありましたが、高市総理は自らの人気を背景に解散に踏み切ったように見えました。

 

選挙戦の中盤には、新聞各社が「自民党圧勝予測」を報じました。

通常であれば、こうした報道は逆風となり、多少の失速を招くこともあります。しかし今回はその予測を覆すことなく、最後まで自民党は勢いを保ち、結果として単独で3分の2を超える議席を獲得する圧勝となりました。

 

テレビのコメンテーターやジャーナリストは、その役割上、政府に対して批判的な視点を持つことが多く、高市総理の問題点を追及する報道も少なくありませんでした。

しかし興味深いのは、その批判が支持の減退につながるどころか、かえってSNS上での高市支持を強化する結果になったのではないかという点です。

テレビでの厳しい発言や否定的なコメントが切り取られ、「またマスコミが批判している」「既存メディアは高市総理を認めたくないのではないか」といった文脈でSNS上に拡散され、その結果、支持者の間では「応援しなければ」という心理が働き、いわば“逆バネ効果”のような現象が起きたように見えます。

従来であれば、マスメディアの批判は世論形成に一定の影響力を持っていました。

しかし今は、その批判自体がSNSのコンテンツとなり、支持を強化する“燃料”になってしまう構造があるのです。

 

今回の選挙で何が投票行動を左右したのか。私が感じたのは、SNSを通じた「推し活」の力です。

高市総理は、具体的な政策論争よりも、「自分が引き続き日本をリードするのがよいのか」という問いかけを前面に出しました。それは政策の是非を問うというよりも、「高市早苗という政治家」を支持するかどうかを問う構図だったように思います。

昨年の総裁選から連立政権の形成に至る過程を振り返ると、停滞感のあった日本政治が一気に動き出した印象を与えました。「この人なら何かを変えてくれるのではないか」「多少の反対があっても政策を実行してくれそうだ」そうしたイメージが支持の背景にあったのではないでしょうか。

さらに、高市総理に代わる明確なリーダー像が与野党ともに見えなかったことも、「ここで交代すればまた停滞するのではないか」という心理を働かせた可能性があります。

 

選挙後、高市総理は「日本を二分する問題を解決する」と抱負を述べました。しかし選挙期間中、その「日本を二分する問題」が何を指すのかが、明確に報道されていた印象はあまりありません。

それでも圧勝したのは、政策の詳細よりも「人物そのものへの期待」が勝った選挙だったとも言えます。

今回の勝利は、高市人気がSNS上で「推し活」として拡散され、それが実際の投票行動につながった結果ではないでしょうか。そして、それに対抗する野党側が支持を広げるどころか、不信感を払拭できなかったことも、自民党の大勝を後押ししたと考えられます。

(野党の敗因については、次回に触れたいと思います。)

 

PRの観点から見ると、今回の選挙は象徴的です。従来のテレビや新聞などの「オールドメディア」(私はこの言い方をあまり好みませんが)による批判的報道よりも、SNSを通じた支持の拡散のほうが、実際の支持を集める力を持ったことを示したように思えます。

言い方は強いかもしれませんが、今回に限って言えば、オールドメディアはSNSに主導権を奪われたと言ってもよいのかもしれません。

今後の選挙でも、この傾向は続く可能性があります。

政策の細かな是非よりも、「立つキャラクター」「共感できる人物像」が前面に出る選挙。

いわば“推される政治家”が強い時代です。

 

これは政治だけの話ではありません。企業のPRにおいても、正攻法の論理的説明だけでは届かない場面が増えています。

どれだけ理屈が正しくても、どれだけデータが揃っていても、共感や物語がなければ、人は動かないのです。

今回の選挙結果は、そのことを改めて示した出来事でした。

PRはますます難しい時代に入っています。しかし同時に、「人がどう動くのか」という本質を考え直すきっかけでもあります。

政治もPRも、情報戦の時代から“共感戦”の時代へ。今回の選挙は、その転換点を象徴しているように感じました。

 
 

~メディアPRの誤解と、PR会社の価値について~


前回のPR講座では、日本ではPRが広告業界の文脈で語られてきたため、PRそのものがなかなか正しく理解されていない、というお話をしました。

その延長線上にあるのが、「PRは安くできるもの」という認識です。

実際、問い合わせの中でも「広告予算がないので、パブリシティで何とかカバーしたい」という相談を受けることがあります。

 

メディアPRが実現すれば、新聞やWebメディアに掲載されても掲載費はかかりません。取材を受けた経験がある方なら、これは誰もが知っている事実でしょう。

そのため、「PR会社が頑張って記事にしてくれれば、費用はほとんどかからない」というイメージが生まれやすくなります。

確かに、メディアPRで直接かかる費用は、

  • プレスリリースの作成・送付

  • (以前であれば郵送費、現在はメール送信が中心)

といった限られたものです。掲載費と比べれば、安いのは間違いありません。

その結果、「それならPR会社に頼まず、自社でやればいいのでは?」という考えに至るのも自然な流れだと思います。

 

しかし、PR会社が提供している価値は、単なるリリース送付作業ではありません。

  • メディアとの継続的な関係性

  • 記者に響くリリースの書き方

  • 企画の立て方、切り口の作り方

  • どのメディアに、どのタイミングで、どう届けるかという判断

こうした ノウハウや経験の蓄積 こそが、PR会社の本質的な価値です。

ところが、それらは「いくらの価値があるのか」を数値で示しにくいため、正当に評価されにくいです。

広告のように「この枠はいくら」という“定価”を設定できないことも、PR会社にとっては難しい点です。

 

PR会社に依頼しても、必ず記事になる保証はありません。仮に掲載されたとしても、想定より小さな扱いになることもあります。

「結果が出ないものにお金をかけたくない」という気持ちは、企業側としては理解できます。

しかし、PR会社は、「紹介される可能性を高めるためのノウハウと役務」を提供しています。

それは、無料や極端に安価でできる仕事ではありません。

 

広告代理店であれば、広告とPRをセットにしたキャンペーンとして提案することで、仮にメディア露出が得られなくても、広告費の中で説明がつきます。

一方、PR会社が「パブリシティが難しいので、広告も併用しませんか?」と提案すると、

「そういうことを頼んだのではない」と言われてしまうことが少なくありません。

ここに、PR会社が広告提案をしづらい構造的な問題があります。

 

以前の講座でも触れましたが、PR活動は短期的に成果を出す手法ではありません。

メディアとの関係性を長期的に築き、情報提供を続けながら、適切なタイミングで活用していく――それが本来のPRのあり方です。

だからこそ、

  • 紹介されなくてもリリースを出し続ける

  • すぐに結果が出なくても関係性を維持する

という姿勢が必要になります。

メディアPRは、「自分で主導して、必ず露出させたい」という目的には、正直あまり向いていない手法かもしれません。

 

「PRは安くできる」というイメージは、“結果として紹介された場合に、費用対効果が非常に高い”という事実から生まれています。

確かに、うまくメディアに取り上げられれば、広告では得られない信頼性と影響力を、低コストで得られます。

しかし、それはあくまで結果論です。

 

メディアPRが安くできるという業界の認識は、PR会社にとって正直なところ、仕事を進めにくくする要因になっています。

だからといって、「高額な費用を請求したい」という話ではありません。

PR会社の活動内容や役割、そしてPRによって得られる中長期的な価値について、適切な価格と評価をいただくことだと思います。それが、結果的により良いPRにつながると考えています。

 

PRは「安く済ませるための代替手段」ではありません。企業の価値を、時間をかけて社会に伝えていくための投資です。

そのことを少しでも理解していただければ、PR会社として、これほど嬉しいことはありません。

 
 

あまり語られない原子力最大の課題──「バックエンド」という現実


前回のコラムでは、原子力発電のPRがうまくいかない理由として、推進派のほうが「ストーリーを作りにくい」という構造的な問題があることをお話ししました。今回は、その話と深く関係しながらも、推進派・反対派のどちらからも十分に議論されていない重要なテーマについて取り上げたいと思います。

それが、原子力の「バックエンド」の問題です。

 

原子力のバックエンドとは、いわゆる「核のゴミ(放射性廃棄物)」の問題です。日本ではよく、「原子力発電はトイレのないマンションに例えられる」と言われます。つまり、発電という優れた機能はあるものの、最終的な出口である廃棄物処理の仕組みが確立していない、という意味です。

核のゴミには大きく二つの種類があります。一つは、使用済み核燃料から生じる「高レベル放射性廃棄物」、もう一つは、原子力発電所の運転や廃炉作業に伴って発生する、瓦礫、作業服や部品などの「低レベル放射性廃棄物」です。

 

政府は、高レベル放射性廃棄物について、使用済み核燃料を再処理し、その廃棄物をガラス固化体にして地中深くに処分する、という方針を示しています。しかし、再処理工場の稼働は何度も延期され、最終処分場についても、いまだに具体的な場所は決まっていません。

この状況は、推進派にとって非常に説明しづらい問題です。原子力発電所を建設し、電力を確保しても、最終的に出てくるゴミの行き先が決まっていない。そのため、この話題はどうしても避けられがちになります。

 

一方で、反対派にとっても、この問題は扱いづらいテーマです。なぜなら、すでに稼働してきた原子力発電所が存在し、単に発電所を止めたからといって、核のゴミが消えるわけではないからです。

反対派が原子力発電所の廃止を訴えても、「では、すでに存在する廃棄物をどうするのか?」という問いに対して、明確な処分プランを示せているわけではありません。

結果として、推進派も反対派も、このバックエンドの問題には深入りしない方が、それぞれの主張を進めやすい。そのため、この最も本質的な問題が、議論の中心から外れたままになっているのが現実です。

 

この問題が極めて重い理由は、高レベル放射性廃棄物の危険性が、非常に長期間にわたる点にあります。放射線レベルが自然界と同程度になるまで、数万年かかるとも言われています。

仮に2万年とすると、今から2万年前の人類は氷河期の時代で、洞窟の中で生活していました。その間に文明は大きく変わり、国家も制度も何度も姿を変えています。果たして人類は、これから先の2万年にわたり、責任をもって核のゴミを管理し続けることができるのでしょうか。正直なところ、それは誰にも分かりません。

 

だからといって、問題から目を背けるわけにはいきません。原子力発電は、人類が自ら選び、作り出してしまった技術です。である以上、人類の英知をもって管理し続けるしかない、というのもまた事実です。

私自身は、核のゴミの問題を考えると、原子力発電が「良いもの」だとは決して思いません。しかし同時に、すでに建設し、運転してきた以上、その責任から逃げることはできないとも考えています。

現在稼働している、あるいは稼働可能な原子力発電所が存在する限り、この問題は消えません。であれば、現実から目を背けるのではなく、責任を持って施設を管理し、可能な限り有効に活用しながら、バックエンド問題と向き合い続けるしかないのだと思います。

 

原子力発電を巡っては、安全性、コスト、立地、エネルギー政策など、さまざまな論点が語られます。しかし、あまり表に出てこないものの、最も根深く、最も重い問題は、このバックエンドの課題ではないでしょうか。

PRの観点から見ても、この問題を避け続ける限り、原子力に対する本当の理解や納得は得られません。不都合な現実であっても、正面から向き合い、どう管理し、どう責任を果たしていくのか。そこからしか、原子力を巡る議論は前に進まないように感じています。

 
 

著者・橘川徳夫 プロフィール

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中央大学経済学部卒業。大学時代は、落語研究会に所属するほどの話好き(うるさいというのが周りの評価?)。座右の銘は「無知の知」。大学卒業後、電力会社や生命保険会社での勤務を経て、2001年ウインダムに入社。過去の様々な業務経験を活かして、PR業務に携わってきた。

落語研究会で養った自由な発想をもとに、様々なPRやマーケティング企画を立案。業務を通して蓄積した広範な業務知識をベースに、独自のPRコンサルティングがクライアントに好評を博している。趣味はランニングと読書。本から新たな知識を見つけたり、ランニング中にアイデアを思い浮かべる。

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